“ロックバンド”を発明した 〜ザ・クリケッツ『ザ・チャーピング・クリケッツ』(1957)【最強ロック名盤500】#57

BUDDY HOLLY AND THE CHIRPING CRICKETS [LP] (YELLOW VINYL, IMPORT) [Analog]

⭐️⭐️⭐️⭐️

【最強ロック名盤500】#57
The Crickets
“The Chirping Crickets” (1957)

50年代のポップスなんて、じつに能天気なものだ。

しかしそんな音楽にも哀しみは漂う。
「こんなに能天気でハッピーだった時代はもうとっくに終わってしまったのだ」という哀しみである。

どのような素晴らしい時間も、いつかは過ぎ去る。
素晴らしい人生の時期も、いつかは終わる。
そう思うとその能天気な歌も、まるで人生の一瞬の輝きを歌っている、刹那的かつ虚無的な音楽にも聴こえてきたりする。

バディ・ホリーは1955年にデビューした、ロック・オリジネイターのひとりだ。
彼の音楽も明るくハッピーなものが多いが、決して能天気なだけのものではなかった。既成概念を打ち破ろうとし、実験精神に溢れ、新しい音楽を創造する意欲に満ち満ちていた。

彼はザ・クリケッツというバンドを率いて、4人で演奏した。
彼らの、ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムス、というこの楽器編成こそが、後にビートルズなどに引き継がれ、ロックバンドの基本の形となったのだ。

ビートルズはチャック・ベリーやリトル・リチャードやカール・パーキンスの影響も感じられるが、何よりもバディ・ホリーの影響を最も色濃く感じる。ちなみに、ビートルズ(カブトムシ)という名前の由来も、クリケッツ(コオロギ)と同じ虫の名前にしたかったからだという。もしもクリケッツがいなければ、ビートルズも存在していなかったかもしれない。

バディ・ホリーは、生まれたてホヤホヤの当時の「ロックンロール」の成長に大きく貢献した。

彼は天才だった。ほとんど3コードしか使わずに、様々な独創的なアイデアとスタジオでの飽くなき実験によってバラエティに富んだ曲作りをした。これもビートルズをはじめとする創造的なロックバンドたちが手本にしたことだ。

本作は1957年11月にリリースされた、バディ・ホリーの記念すべき1stアルバムである。
ジャケットにバディ・ホリーの名がなく、ザ・クリケッツというバンド名義になっているのは、レコード会社を移籍した直後だったため、収録曲の一部でバディ・ホリーの名前が使えない事情があったためである。カッコ内はシングルチャートの順位である。

SIDE A
1. オー・ボーイ(全米10位、全英3位)
2. ノット・フェイド・アウェイ
3. ユーヴ・ガット・ラヴ
4. メイビー・ベイビー(全米17位、全英4位)
5. イッツ・トゥー・レイト
6. テル・ミー・ハウ

SIDE B

1. ザットル・ビー・ザ・デイ(全米1位、全英1位)
2. アイム・ルッキン・フォー・サムワン・トゥー・ラヴ
3. エンプティ・カップ
4. センド・ミー・サム・ラヴィン
5. ラスト・ナイト
6. ロック・ミー・マイ・ベイビー

イントロなしでいきなり始まるA1「オー・ボーイ」は私の最も好きな曲のひとつだ。テンポが速く、エッジの効いた性急感がカッコいい。この「速さ」もまた彼の実験のひとつだったのかもしれない。

B1「ザットル・ビー・ザ・デイ」はバディ・ホリーの代表曲。最初に契約したデッカでレコーディングした際にはレコーディング責任者から「最悪の曲」「君は私が会った中で最も才能がない」と酷評され、お蔵入りにされてしまった曲だった。デッカは1年でクビになったが、ブランズウィックに移籍して再録音すると、全米1位、全英1位の世界的ヒットとなった。

A4「メイビー・ベイビー」も全米17位、全英4位となったが、これら3枚のシングルすべてが英国でも大ヒットしていることからも、英国でのバディ・ホリーの人気とその影響力を窺い知ることができる。

彼はいわば「ブリティッシュ・ビートの父」なのである。


↓ 全米10位、全英3位のヒットとなった「オー・ボーイ」。

Buddy Holly & The Crickets "Oh, Boy!" on The Ed Sullivan Show

↓ 100万枚を超える大ヒットとなった代表曲「ザットル・ビー・ザ・デイ」。

Buddy Holly & The Crickets "That'll Be The Day" on The Ed Sullivan Show

(Goro)