1995
この年、英国では《ブリット・ポップ・ムーヴメント》の嵐が吹き荒れた。それを牽引したのはもちろんオアシスとブラーだったが、この年あたりから、レディオヘッドが次第に存在感を増してくる。今回はもちろんブリット・ポップ勢のほんの一部しか取り上げられないが、興味のある人は以下の過去記事を参照して頂きたい。
米国はカート・コバーンの悲劇から後、オルタナティヴ・ロックの勢いはすっかり衰えた印象だったが、しかしニルヴァーナに存在したもうひとりの奇跡の才能が、沈んだシーンの救世主の如く現れた。
阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件などに揺れた日本で、29歳のわたしは10年勤めていた映画館の将来に不安を感じて転職することにした。できれば前職より給料が良くて休みも多くて将来も安泰な職場に就こうと思っていたがアテが外れ、あの深刻な不景気のさ中に、なんの技術も知識もない中卒の馬鹿にそんな仕事が見つかるはずもなく、2年ほどの間、転々と職を変えながら、何人もの女子にフラれ、借金をせっせと増やしながら、青息吐息でのたくりながら、わたしは迷走し続けた。
なにもうまくいかず、将来の展望も見えてこない中で、そういえば、青春時代はもう終わったのかなあなどと、徐々に事態の深刻さには気づき始めていたものの、つとめて見て見ぬふりをしようとしていた。
Oasis – Wonderwall
オアシスの歴史的名盤2nd『モーニング・グローリー』は、全世界で2,500万枚を超すビッグ・ヒットとなった。この曲も全英2位、全米8位の世界的ヒットとなり、彼らの代表曲となった。
天才的なソングライティングによる充実した内容は、90年代英国ロックの最高傑作と言っても過言ではないだろう。
英米の90年代ロック革命の集大成であり、完全決着のようにわたしは感じた。90年代は半分まで来たところだけど、もうこれ以上はないだろうな、となんとなく思っていた。
Pulp – Common People
オアシス、ブラーに次いでブリット・ポップの顔となったのがこのパルプだった。
シングル「コモン・ピープル」が全英2位の大ヒットとなり、遅咲きの彼らにの5枚目のアルバム『コモン・ピープル(Different Class)』も全英1位に輝いた。
リアルな歌詞と80年代風のキラキラしたサウンド、ジャーヴィスの下手クソだけど熱いヴォーカルは、「庶民」リスナーたちの共感と熱狂的な支持を得たのだった。
Radiohead – Fake Plastic Trees
2ndアルバム『ベンズ』からシングルカットされたものの、あんまり売れなかったらしい。そりゃそうだろう、あまりに弱々しく、おそろしく内向的で、カッコ良さなど微塵もなく、八方塞がりの切実さがスゴい世界観だ。
だが、なぜかわたしの胸の奥に深く突き刺さってきた。
このアルバムは傑作だった。この頃から英国ロックシーンにおいてレディオヘッドが徐々に存在感を増してくる。
Elastica – Waking Up
ブリット・ポップには女子ヴォーカルのバンドも多く存在したが、中でもこのエラスティカはエース格だった。フロントマンのジャスティーン・フリッシュマンは当時、ブラーのデーモン・アルバーンの恋人としても知られ、そのクールなルックスでも人気を集めた。
この曲は1stアルバム『エラスティカ』からのシングルで、全英13位まで上がるヒットとなった。そしてアルバムは全英1位の大ヒットとなった。
Ash – Girl From Mars
アイルランド出身のアッシュもブリット・ポップの波に乗ってブレイクした。この曲は彼らのメジャー・デビューとなった5枚目のシングルで、全英11位と初めてのヒットとなった。
1stアルバムのタイトルにもなっている「1977」とは、ヴォーカルのティムとベースのマークが生まれた年だ。当時彼らはまだ19歳だったのだ。若さ丸出しの、初期衝動と持て余すエネルギーがそのまま圧倒的な音圧と躍動感になっているような、好感しか感じない演奏だ。
The Cardigans – Carnival
この頃、わたしはドライバーの仕事をしていて、CDの付いていない商用車では毎日朝から晩までラジオを流しっぱなしにしていたものだったが、この年いちばんFMラジオから流れた洋楽がこの曲だったと思う。なにしろ、本国のスウェーデン以上に日本でヒットしたらしい。
この曲をきっかけに、日本ではスウェディッシュ・ポップのブームが起きたほどだった。
Alanis Morissette – You Oughta Know
この年にラジオから頻繁に流れてきたと言えばこの人の歌声もそうだ。
カナダ出身のシンガー・ソングライター、アラニス・モリセットは、この3rdアルバム『ジャグ・ド・リトル・ピル』で、マドンナがつくったレーベルから世界デビューを果たした。
そしてこの曲をはじめとしてシングル・カットした楽曲が次々にヒットし、アルバムは世界で3,300万枚を売り上げた。
このとき彼女は、たったの20歳だった。
Soul Asylum – Misery
米ミネソタ州出身のソウル・アサイラムは、10年ほどの長い長い下積みを経て、前年の「ラナウェイ・トレイン」でようやくブレイクしたバンドだった。
でも、わたしはこの年のシングル「ミザリー」のほうがもっと気に入った。配達の仕事をしながら、この曲とアラニスの「ユー・オウタ・ノウ」がラジオから流れるのを心待ちにしていたことをよく憶えている。
この曲は全米20位のヒットとなり、「ラナウェイ・トレイン」と並ぶ彼らの代表曲となった。
Smashing Pumpkins – 1979
3枚目のアルバム『メロンコリー、そして終りのない悲しみ』からのシングルで、全米12位のヒットとなり、彼らにとって最も有名な代表曲となった。
そしてアルバムは2枚組28曲入りの大作ながら、まさかの全米1位の大ヒットとなり、久々にオルタナが1位になったっつうんで、えらく話題になったものだった。
Foo Fighters – This Is a Call
前年にニルヴァーナが突然消滅する悲劇があり、そのドラマーだったデイヴ・グロールが、自身ですべて曲を書き、すべての楽器を演奏して録音された1stアルバム『フー・ファイターズ』の冒頭を飾る曲だ。
これを聴いたときには、久々に興奮したものだ。まさかあのバンドにもうひとり、こんな凄い才能のやつがいたなんてと、それはもう嬉しい驚きだった。
それはわれわれの期待を遥かに超えてみせた、まるでカート・コバーンが乗り移ったかのような素晴らしいソングライティングだった。
これでロックは救われた、まだいける、とわたしは思った。
選んだ10曲がぶっ続けで聴けるYouTubeのプレイリストを作成しましたので、ご利用ください。
♪YouTubeプレイリスト⇒ ヒストリー・オブ・ロック 1995【英国にブリット・ポップ吹き荒れ、米国に救世主現る】Greatest 10 Songs
ぜひお楽しみください。
(by goro)