1991
この年、バブル経済がはじけた。日本はここからずっと右肩下がりの不景気に突入した。今もまだ。
ソビエト連邦は崩壊・消滅し冷戦の時代は終わったが、替わりにイラクで湾岸戦争が勃発した。どれだけ反戦を歌っても戦争はなくならなかった。今もまだ。
そんな激動の年、ロックシーンにも革命が起こった。上を下への大騒ぎを、わたしも体験した。この年は、史上稀に見るロックの大豊作となった。イギリスでも、アメリカでも。
中でも最も注目を集めたのがニルヴァーナの大ブレイクだった。
米ワシントン州シアトル出身の、小汚い格好の田舎者たちのバンドが2作目のアルバムでメジャー・デビューし、オルタナティヴ・ロックながら、2,000万枚を超す世界的なメガヒットとなった。
前年のソニック・ユースが扉を開いた、インディーズ系のオルタナ・バンドのメジャー・デビューの勢いは止まらず、メインストリーム・ロックはどんどん影が薄くなり、オルタナティヴ・ロックが逆にロックシーンの中心となるという、まさに革命的な逆転現象が起こっていったのだ。
オルタナティヴとは「主流ではない、別のもの」という意味で、それまでのロックシーンではインディーズ・レーベルに所属しているアーティストたちのことを主にそう言っていたが、ここへ来てオルタナだったのにメジャー・レーベルに移籍はするわ、主流よりも売れて、逆に主流になってしまうわで、もうなにがオルタナでなにがメインストリームなのかよくわからないことになっていく。
当時25歳のわたしは、バブル経済の崩壊なんて、もともとなんの恩恵も受けていない底辺生活をしていたので痛くも痒くもなく、ただこのロックシーンの一大革命を、人生で一番アツい夏の大祭りのように感じながら、新しいロックや名盤が次々に生まれる衝撃に興奮したり震えたりしながら、最高の気分で過ごしたものだった。
そして今回の1991年は、ロック史上稀に見る大豊作の年ということで、特別編として、いつもの倍の20組20曲を選んでみました。
Nirvana – Smells Like Teen Spirit
ロックシーンにとてつもない爆弾を放り込んで一気に流れを変えたという意味で、ニルヴァーナの大ブレイクは、セックス・ピストルズ以来の衝撃だった。
彼らの音楽は、殺伐とした世界観に轟音ギターとラウドなサウンド、ポップなメロディとユーモアが融合し、当時のわたしがロックに対して望んだすべてのものが揃っているようだった。それは新しく、圧倒的な輝きを放っていた。
80年代から続いたチャラついたクソだらけのロックシーンに、ついに本物のロックが還ってきた、と思ったものだった。
Dinosaur Jr – The Wagon
ダイナソーJrのメジャー・デビュー盤となった4thアルバム『グリーン・マインド』のオープニング・トラック。
まあ初めてこの曲を聴いたときの興奮ったらなかった。このスピード感、ポップで爽快なメロディ、轟音ギターによるとんでもないギター・ソロのさく裂。まさに衝撃的だった。
Red Hot Chili Peppers – Under The Bridge
ワーナー移籍第1弾となった5thアルバム『ブラッド・シュガー・セックス・マジック(Blood Sugar Sex Magik)』で、レッチリの運命も大きく変わった。天才プロデューサー、リック・ルービンの功績も大きく、アルバムは今でも彼らの代表作として愛されている。
この曲は、全米2位の大ヒットとなった名曲だ。まるで、意を決して初めて本当のことを語ろうとしているような、武骨ながらどこまでも誠実なバラードだ。
Smashing Pumpkins – Siva
スマッシング・パンプキンズのメジャー・デビューとなった1stアルバム『ギッシュ』からのシングルだ。
”オルタナ界のツェッペリン”とでも言いたくなるほど、他のオルタナ勢より頭ひとつ抜けた完成度の高さとオリジナリティ、独特のスマパングルーヴのカッコ良さが衝撃的だった。
Metallica – Enter Sandman
スラッシュ・メタルの頂点に立ち「メタル・ゴッド」と呼ばれたメタリカが、この5thアルバムではなんとスピードを捨て、メタルの様式を捨ててグルーヴを重視した作風で、初の全米1位、全英1位を獲得した。
これにはもちろん賛否両論があったが、当時の時代の流れに影響を受け、方向性を転換したメタリカにわたしは心から拍手を送ったものだった。
Mudhoney – Let it slide
ニルヴァーナと同郷のシアトルのバンド、マッドハニーは同じくSUB POPからデビューした。それぞれの音楽性にも共通したものがあり、お互いに影響しあい、仲も良かったらしい。
当時はSUB POPに在籍したバンドを一括りに「グランジ・ロック」と呼び、当時一大ブームとなったが、わたしはニルヴァーナとこのマッドハニー以外は正直あまりピンとこなかった。
この曲は彼らの2ndアルバム『良い子にファッジ(Every Good Boy Deserves Fudge)』からのシングル。クソやかましいギター、一緒にに絶叫したくなる歌メロ、無邪気な疾走感が最高だ。
Pearl Jam – Even Flow
パール・ジャムもまた、シアトルのSUB POPレーベル出身で、グランジ・ロックの代表格だった。
当時、シアトルを舞台にした『シングルス』という映画でも描かれたように、長髪とネルシャツに短パンといういわゆる「グランジ・ファッション」の元祖となったのがこのパール・ジャムのエディ・ヴェダーだった。
この曲は彼らの1stアルバム『テン(Ten)』 からの2ndシングル。ニルヴァーナやマッドハニーとはやや方向性の違う、重量感のあるパワフルなハード・ロックだ。
R.E.M. – Losing My Religion
当時流行の轟音ギターもフィードバックノイズもダンスビートも無く、シンプルの極みみたいな、今時めずらしいほど清々しい音楽だなあと思って聴いたものだった。
今思えば、60年代のバーズなどのフォーク・ロック直系と言える、つまりアメリカン・ロックの原点に還っていたのがこのR.E.M.だったのだ。
この「ルージング・マイ・レリジョン」はまさにそんなR.E.M.の要素が全部備わっている代表曲だ。
Matthew Sweet – Girlfriend
米ネブラスカ州出身のマシュー・スウィートは日本のアニメ好きでも有名になった。肩には『うる星やつら』のラムちゃんのタトゥーを入れていたし、この曲のPVは『コブラ』の映像を使用している。当時はまだめずらしかった、クール・ジャパンにハマる欧米人の先駆けだったのだ。
ポップなメロディと歪んだギターの組み合わせ、こういう甘辛ロックを70年代に「パワー・ポップ」と呼んでいたが、マシュー・スウィートはそれを90年代アメリカに復活させた功労者でもあった。
Guns N’ Roses – November Rain
当時のメインストリーム・ロックの象徴的存在としてオルタナ勢から敵視されていたガンズ・アンド・ローゼスの、4年ぶりとなった2ndアルバム『ユーズ・ユア・イリュージョン(Use Your Illusion)』は「Ⅰ」と「Ⅱ」の2枚同時発売という形態でリリースされた。
全米・全英ともに1位・2位を独占し、合わせて3,500万枚を売る大ヒットとなった。オルタナ勢の台頭に押されてはいたものの、まだまだ人気は衰えていなかった。
この曲はその「Ⅰ」のほうに収録され、壮大なオーケストレーションを施された長尺のシングルで、全米3位、全英4位の大ヒットとなった。
Lenny Kravitz – It Ain’t Over ‘Til It’s Over
米ニューヨーク出身のレニー・クラヴィッツは、ジョン・レノンやジミ・ヘンドリックス、スライ・ストーンなどに強い影響を受け、すべての曲を書き、すべての楽器を自身で演奏してレコーディングする、マルチプレイヤーだった。まるで『ジョンの魂』のようなヴィンテージ・サウンドが当時話題になったものだ。
この曲はブレイク作となった、全米2位、全英11位の大ヒット曲。
U2 – The Fly
あの『ヨシュア・トゥリー』から4年ぶりとなるアルバム『アクトン・ベイビー』からの1stシングル、「ザ・フライ」を聴いたときはぶっ魂げたものだ。U2がまさかのダンス・ビート、そこにラウドなギターと語るようなヴォーカルとファルセットのコーラスの絶妙の組み合わせがクールでカッコ良すぎたのだ。
アルバムも彼らの最高傑作と言えるほどの素晴らしい出来栄えだった。1991年というロックシーンの激動の年に、時代遅れになるどころか、余裕でトップランナーであることを彼らは証明してみせたのだった。
My Bloody Valentine – When You Sleep
そしてU2の後輩、アイルランド出身のマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの2nd『ラヴレス』は、この年に産み落とされた最恐の怪物であり、シューゲイザー・ブームにとどめをさす金字塔だった。
フィードバックノイズの轟音による新しい音響のロックはここに極まった。もはや音楽という次元を超えた、前代未聞のアートのようだった。
Primal Scream – Movin’ On Up
プライマル・スクリームの1991年発表の名盤3rd『スクリーマデリカ』のオープニング・トラック。
ロックとハウス・ミュージックを融合した画期的なアルバムの中でも、この曲は南部ロック色が濃く、ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」を想起させるような名曲に仕上がっている。
それもそのはずで、この曲のプロデュースをしたのがストーンズの『ベガーズ・バンケット』をプロデュースした、あのジミー・ミラーなのだ。
Teenage Fanclub – The Concept
英スコットランド出身のティーンエイジ・ファンクラブがクリエイション・レコーズに移籍してリリースした2nd『バンドワゴネスク』もまたこの年の数多い名盤のひとつだ。
肩の力が抜けたラフな曲調とラウドなギターとユーモアもありつつのせつない系メロディのルーツはザ・バーズ、そしてニール・ヤングやダイナソーJrの影響が感じられる。
その知名度以上に大きな影響を後進にも与えた、90年代を代表するパワー・ポップ・バンドだ。
Swervedriver – Rave Down
英オックスフォード出身でクリエイション・レコーズからデビューしたスワーヴドライヴァーの1stアルバム『レイズ(Raise)』からのシングル。当時流行のシューゲイザー的な轟音ギターに、70年代ハード・ロックの要素も紛れ込んだ、ワイルドな音楽性が彼らの持ち味だ。
それにしても当時のクリエイションの勢いは凄まじく、この時代の英インディ界を支えたといっても過言ではない。
ちなみに上記の、マイ・ブラ、プライマル・スクリーム、ティーンエイジ・ファンクラブなども同レーベルの所属である。
Ned’s Atomic Dustbin – Happy
英バーミンガム出身のネッズ・アトミック・ダストビンは、ギターが1人でベースが2人というめずらしい5人編成のバンドだ。
この曲は彼らの4枚目のシングルで、全英チャート16位と、彼らにとって最高位を記録した曲だ。完成度は高くないが、彼らのスパークするような若さと勢いがこの曲を輝かせていた。
これを聴けば、当時はどれだけ生活が苦しくても、どれだけ女子にフラれまくっても、なんだかハッピーな気分になっていたものだ。
Jesus Jones – International Bright Young Thing
名盤2nd『ダウト(Doubt)』からのシングルで、全英7位のヒットとなった。
この曲はマイク・エドワーズが日本からイギリスに帰る飛行機の中で書いたそうだ。「世界中の輝ける若者たちよ、きみたちが世界を揺り動かすんだ!」という歌詞だ。
「おれのことか!」と当時の輝けるわたしは思ったものだった。
まあまあ、若い頃なんてそんなものである。そういう輝かしいアホがロックを支えているのだ。
Massive Attack – Unfinished Sympathy
英ブリストル出身の音楽ユニット、マッシヴ・アタックの名盤1st『ブルー・ライン』からのシングルで、全英13位と、彼らの出世作となった。
ダンス・ビートでありながら、到底踊りだしたくなるような雰囲気ではなく、暗く、気だるく、浮遊感のあるサウンドが特徴の、史上最も美しい、独創的なダウンビート・ミュージックだ。
Manic Street Preachers – You Love Us
まだ1stアルバム発売以前に、全英16位のヒットとなったシングルで、当時のマニックスを象徴するようなタイトルがかわいらしい。
ただし当時はその音楽よりも、彼らのビッグマウスや奇行ばかりがマスコミに取り上げられ、煽り立てられ、そして叩かれ、悪名だけが広まり、わたしも、なんて傲慢で目立ちたがりのクソ野郎どもだ、と思っていたものだった。
それがまさか後に、英国を代表する国民的人気バンドに成長して、感動的な名曲や名盤を量産するとは、世の中なにがどうなるかわからんものだ。
選んだ20曲がぶっ続けで聴けるYouTubeのプレイリストを作成しましたので、ご利用ください。
♪YouTubeプレイリスト⇒ ヒストリー・オブ・ロック 1991【英米同時多発ロック革命】Greatest 20 Songs
ぜひお楽しみください。
(by goro)