⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
Big Star
“Third” (1978)
1stアルバムも2ndアルバムも、あまりの売れなさにメンバーが次々と去り、ビッグ・スターはついにアレックス・チルトンとドラムのジョディ・スティーヴンスの2人だけになってしまった。
そして1975年に録音した3rdアルバム『サード』は、プロモーション用に250枚がプレスされたものの、どこのレコード会社からも相手にされず、そのままお蔵入りとなってしまう。
信じられない話だ。
こんな素晴らしい名盤に誰も飛びつかなかったなんて。
まあ、売れなさそうではあるけれども。
それから3年後の1978年3月にようやくインディ・レーベルから発売されたが、もちろんまったく売れず、ビッグ・スターは解散した。
本作はレーベルを変えて何度も再発され、その度に曲順や収録曲が変わっていたりするが、バンドの当初の意向を反映したとされ、現在でもCDや配信で聴けるバージョンを以下に載せておく。
【Rykodisc エディション 1992】
1 キッザ・ミー
2 サンキュー・フレンズ
3 ビッグ・ブラック・カー
4 ジーザス・クライスト
5 宿命の女(ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカバー)
6 オー・ダーナ
7 ホロコースト
8 カンガルー
9 ストローク・イット・ノエル
10 フォー・ユー
11 ユー・キャント・ハヴ・ミー
12 ナイタイム
13 ブルー・ムーン
14 テイク・ケア
一聴して、こりゃとんでもないアルバムだぞ!と、わたしは確信したものだった。
フロントマンでソングライターのアレックス・チルトンは、録音時は精神状態も体調も良くなかったらしく、歌もヘロヘロで元気がなく、今にも泣き出しそうなくらいだ。
なので全体的に暗い翳りが覆っているけれども、しかしそれこそがとうとう正体をあらわした彼の真髄のように思われ、パワー・ポップの傑作と評される1stや2ndが色褪せて、どうでも良くなってしまうほどである。
耳に残って離れないメロディがあるかと思えば、美しい不協和音とノイズが飛び交う曲もあり、まるでこの世の終わりのような諦念に満ちた世界観にシビれる。もはや商業的な成功などはなから考えず、やりたいことをやったアルバムだった。
米メンフィス出身のアレックス・チルトンは、その才能に見合うほどの評価をされないまま、不遇な音楽人生を送った。
彼は60年代にザ・ボックス・トップスというバンドでデビューし、いきなり「あの娘のレター」で全米1 位の大ヒットをかっ飛ばした。彼は当時16歳で、商業的にはそれがピークだったのだ。
ボックス・トップス解散後、1970年にソロ・アルバムを録音するがお蔵入りとなり、その後結成したビッグ・スターも売れず、その後は皿洗いなどのバイトをしながら音楽活動をして、生計を立てていた。
そんなアレックス・チルトンが脚光を浴びたのは1990年代初頭のことだった。
ティーンエイジ・ファンクラブやポウジーズなどの活躍で「パワー・ポップ」がにわかに注目を集め、そのパワー・ポップの源流こそがビッグ・スターであり、彼らへのリスペクトを表明するアーティストは多く、彼らの作品とその多大な影響が世に知られるようになったのだ。
それに気を良くしてか、あるいはオファーに応えたのか、ビッグ・スターは90年代半ばに再結成した。と言ってもオリジナル・メンバーはアレックス・チルトンとドラマーの2人だけで、あとポウジーズのメンバーが2人参加したらしい。
そのメンバーで来日も果たし、わたしの地元に近い名古屋でもライヴをやったようだが、客入りは少なく、アレックス・チルトンが出てきても誰も気づかず、ポウジーズのメンバーが出てくると歓声が上がったというから、なんともせつない。同じ県民として深くお詫びを申し上げたい。
その後、アレックス・チルトンは仕事を減らしてニュー・オーリンズの自宅で静かに過ごすことを好み、ビッグ・スターやボックス・トップス、そしてソロのギグをときどきこなしては最低限の生活費を稼ぐ生活を続けた。
2010年3月に体調を崩したが、健康保険に加入していなかったため医師の診察を受けず、その1週間後に心臓発作で死去した。59歳だった。
↓ アルバムの冒頭を飾る「キッザ・ミー」。
↓ アレックス・チルトンの暗部を覗き込むような「ホロコースト」。
(Goro)