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James Brown and His Famous Flames
“Please Please Please” (1958)
この当時、ジェームス・ブラウンはソロ・シンガーではなく、ザ・フェイマス・フレイムズというヴォーカル・グループのメンバーだったのだ。
しかし彼がグループの曲のほとんどを書き、リード・ヴォーカルを取るにつれ実権を握り、レコードデビューする頃には本人が望んだのかレコード会社が望んだのか、いつのまにか「ジェームス・ブラウンとフェイマス・フレイムズ」とクレジットされることになった。まあ、よくある話ではあるけれども。
本作は1958年12月にリリースされた、ジェームス・ブラウン&ヒズ・フェイマス・フレイムズの1stアルバムである。
遡ること2年9ヶ月前の1956年3月に彼らはキングレコードと契約し、シングル「プリーズ、プリーズ、プリーズ」でデビューした。
エタ・ジェームスによれば、JBは当時古いボロボロのナフキンを大切に持ち歩いていて、それにはリトル・リチャードが書いた「Please Please Please」の文字があったという。JBはそれをタイトルにして曲を書いたということらしい。
それまでのポップスやR&Bの概念からすると完全にぶっ飛んでいるようなこの曲のレコーディングが始まると、その場にいたキングレコードの創立者、シド・ネイサンは激怒した。「こんなものは音楽でもなんでもない、ただのクズだ」とこき下ろしたが、JBはなんとか彼を説得し、発売にこぎつけた。
するとシングル「プリーズ、プリーズ、プリーズ」は米R&Bチャートの6位を記録し、100万枚以上を売る大ヒットとなった。
同じような話をついこのあいだバディ・ホリーの「ザットル・ビー・ザ・デイ」で書いたばかりだが、音楽業界あるあるなのかもしれない。なんならあのビートルズだって、デッカ・レコードのオーディションを受けて不合格にされているのだ。
わたしも20年の会社員経験があるが、経営者にも幹部社員にも自分が何をしているかまったくわかっておらず、会社の息の根を止めようとしていることに気づいていない馬鹿者がいくらでもいたものだ。音楽業界にも節穴の目を持つ経営者や社員はやはりいたのだろう。
しかし、その後の2年半にリリースした9枚のシングルはすべてチャート入りすることなく、不発に終わった。
そしていよいよキングレコードが彼らの解雇を検討し始めた頃、1958年10月にリリースした通算11枚目のシングル「トライ・ミー」が、R&Bチャート1位となる起死回生の大ヒットとなってなんとか彼らの首はつながったのだ。
本アルバムはその勢いに乗ってリリースされた、それまでに出ていたシングルをまとめて収録したものである。
【収録曲】
SIDE A
1 プリーズ、プリーズ、プリーズ
2 チョニー・オン・チョン
3 ホールド・マイ・ベイビーズ・ハンド
4 アイ・フィール・ザット・オールド・フィーリング・カミング・オン
5 ジャスト・ウォント・ドゥ・ライト
6 ベイビー・クライズ・オーヴァー・ジ・オーシャン
7 アイ・ドント・ノー
8 テル・ミー・ホワット・アイ・ディドゥ・ロング
SIDE B
1 トライ・ミー
2 ザット・ドゥード・イット
3 ベッギング、ベッギング
4 アイ・ウォークト・アローン
5 ノー、ノー、ノー、ノー
6 ザッツ・ホェン・アイ・ロスト・マイ・ハート
7 レッツ・メイク・イット
8 ラヴ・オア・ア・ゲーム
それにしても汚い声だ。ガサガサだし、ツヤなどまるでない。
しかしその野生味あふれる、恥ずかしげもなく感情をぶちまけるようなパワフルな歌唱は、ソウル・ミュージックという新しい音楽への扉を開いた。そして更にはファンクという音楽をやがて創造する。やっぱりこういう常識を超えたような人が既存の価値観を壊していくのだろう。
本作はまだR&Bからソウルへと進化しつつある時期の作品だが、すでにファンクへの萌芽を孕んだような楽曲もいくつかあるし、バックバンドのアレンジもこの時代としてはかなり斬新と言える画期的なアルバムだ。
ヴォーカルスタイルは野蛮極まりないが、しかし音楽性は決して荒っぽいものではなく、むしろ知性的で洗練されている。この野蛮と洗練の両立がジェームス・ブラウンの音楽性の真髄だとわたしは思っている。ただの野蛮なだけの音楽なら、この最下層の肉体労働者でありながらも極めてソフィスティケートされたわたしの心になど刺さるわけはないのだ。
「プリーズ・プリーズ・プリーズ」は、ザ・フーが1stアルバムでカバーしている。
本作は英国のモッズたちにも愛されたアルバムだった。
↓ デビュー・シングルで米R&Bチャート6位のヒットとなった「プリーズ、プリーズ、プリーズ」。
↓ 解雇寸前に起死回生の大ヒットとなった「トライ・ミー」。米R&Bチャート1位を記録。
(Goro)