『ダーティ・ワーク』(1986)
The Rolling Stones
その戦いはミックvsキースから、ミックvsストーンズへと発展した。
ミックはバンドに内緒で、ソロ活動を計画していたことがバレたのだ。キースは以下のように語っている。
あいつの鼻持ちならない態度が絶頂になったころ、俺たちが集まった場に爆弾が落ちた。1983年、ストーンズに対する世間の関心が高まっていた。CBSおよび社長のウォルター・イェトニコフと、2千何百万ドルかの複数レコード契約を結んだからだ。かなりあとまで俺は知らなかったが、この契約の裏でミックはCBSと、何百万ドルかでソロアルバムを3枚出す契約を独自に結んでいた。バンドの誰にも一言も言わずに。
お前が誰だろうが関係ない。ローリング・ストーンズの契約に抱き合わせで乗っかるのはやめろ! ミックはどこ吹く風だった。バンドを完全に無視した行為だ。もう完全に頭にきた。裏切りあうためにこのバンドを作ったんじゃないんだ。(『ライフ』キース・リチャーズ著 棚橋志行訳)
キースだけでなくバンドの全員が、皇帝かなにかのように振る舞う尊大なミックに我慢ならなくなっていた。翌84年には、ミックが酔っ払ってチャーリーを「俺のドラマー」と呼び、激怒したチャーリーにぶん殴られている。
『ダーティ・ワーク』のレコーディングが始まると、さらに状況が悪化した。キースは以下のように続ける。
1985年に『ダーティ・ワーク』の録音でパリに集まったときは、まずい雰囲気だった。ミックが自分のソロアルバムに取り組んでいたせいでセッションが延期になっていたのに、みんなが集まってもまだあいつはプロモーションに駆けずり回っていた。そのうえ、曲をほとんど持たずにやってきた。自分のアルバムに使い果たしちまったんだ。
だから俺はパリでまた『ダーティ・ワーク』の曲を書かなきゃならなかった。スタジオの険悪な雰囲気は全員に悪い影響を及ぼした。ビル・ワイマンはほとんど出てこなくなった。チャーリーは飛行機でイギリスに帰っちまった。(『ライフ』キース・リチャーズ著 棚橋志行訳)
このアルバムで初めてキースがリード・ヴォーカルを2曲も取ったのもそのせいだった。
ロン・ウッドがドラムを叩いた曲があるのも、ビルがベースを弾いているのが3曲しかないのも、キースが書いた歌詞に「ボディに一発喰らわす」とか「あざだらけのポロポロにしてやる」とか「もううんざりだ、我慢できない」などという激しい言葉が頻発するのも、すべてはそういう事情のためだ。
そんな最悪の状況の中でもなんとか捻り出されたアルバムだったが、シングル・カットされた「ハーレム・シャッフル」(全米5位、全英11位)はカバーながら久々にストーンズらしい直球のR&Bで良い出来だったし、「ワン・ヒット」(全米28位、全英80位)は80年代の曲では最も好きな曲のひとつだ。そして、当時のミックとキースの対立を監督がそのまま演出に使ったPVも最高だった。
しかし残念ながらそれ以外の曲には、やはりジャガー/リチャーズによるあの誰も真似のできない化学反応やマジックみたいなものが生まれていないせいか、ストーンズの楽曲にしてはどこか中身のない、空虚さを感じてしまうものが多い。
アルバムチャートでは全英・全米ともに4位と、チャート・アクションも前作を上回ることはなかった。
当時20才だったわたしは、久々にメンバー全員が写っているジャケットを嬉しく思いながらも、ああ、これがストーンズの最後のアルバムなのかな、などと思ったものだった。
(Goro)