11月13日にこのブログで公開した記事『母と闘う』の、その後を書こう。今回もロックとは何も関係ない。
母の認知症は会うたびに進行しているように思えた。メールも毎日何通も届いた。
「金が見つからない。盗まれた」というのもあれば「通帳とカードを返せ」というものもあれば、「明日警察へ行くよ。今まではあんたの家族が不憫だから我慢してたけどもう我慢ならない」などという脅しのようなメールも、毎日のように届いた。
いちいちメールに返信はしなかった。通帳とカードも返さなかった。滞納していた家賃や光熱費などもひとまずすべて払い終えた。そして毎週末に、1週間分の生活費として、1万円を口座からおろして、母に渡しに行った。以前は2週間に一度、2万円を渡していたが、数日で使い切ってしまうので、1週間に一度、1万円に変えたのだ。
行くたびに、1週間で1万円は少なすぎると文句を言われた。そのたびに、月10万円の年金収入では、家賃や光熱費などを除くと生活費は4〜5万ぐらいしか残らないんだということを説明する。
母に言わせれば、年金はもっとあるはずなのに、1週間1万円は少なすぎる。食料品が値上がってるのに、とてもこんな金額じゃ暮らしていけない、わたしの年金とジジイの遺族年金が入ってるんだから、もっと使えるお金があるはず、などと激昂するので、また最初から説明する。何度も何度も、これを繰り返す。
そしてある日、「補聴器が盗まれた」とまた仕事中にメールが来た。母は、補聴器がないとまったく耳が聴こえない。翌日の土曜日にいつものように生活費を持っていく予定だったが、1日前倒しで、仕事の帰りに持っていくことにした。
母が一人で暮らしている昭和の遺物のような木造アパートに着き、生活費を渡し、補聴器を探してみたが、やはり見つからない。
母は「奈美が夜中に来たみたい」と言う。
奈美というのは長女の名前だ。わたしの妹である。
母はなぜか、奈美をなにかと目の敵にする。
金を使い切ってしまうといつも、「金がなくなった。奈美が盗んで行った」などと言いだす。奈美の何がそんなに気に食わないのか、具体的なことはほとんど言わないが、いつも言うのは「正月にしか顔を出さない」ということぐらいだ。
しかし、実際には正月以外にも何度も奈美は母の家を訪ね、金を貸したり、病院に連れて行ったり、親身になって母のフォローをしている。
近親憎悪というやつなのだろうか。たぶん、寂しいのだろう。いちばん頼りにしていて、いちばん側にいて欲しいのが奈美なのだろうが、ときどきしか来れないことに対して怒っているのではないか。
「奈美が補聴器なんか持っていくわけないでしょう」と、認知症の人の言うことを否定しても仕方がないことはわかっているのに、わたしもついそう言ってしまう。
「夜中に来て、お金も補聴器もシャンプーも石鹸も洗剤も、みんな盗んで行ったよ。どうしてそんなことするのかねえ」などと呆れたように笑いながら母が言う。寝ている間に妹が母の家に忍び込んで、あらゆるものを盗んでいくと言うのだ。よく見ると、勝手口のドアがガムテープでガチガチに固められていた。訊いて見ると案の定「夜中に入られないようにするため」だった。
結局、補聴器は見つからなかった。母は「明日お店に行って、作ってもらう。障害者だからタダで作ってくれる」と呑気に言っていたが、その年すでに二度目の紛失なので、無料で作ってもらえるのは、実際には1年後くらいになる。
それから数日後、われわれ兄弟4人のグループLINEに奈美が、週に二度ほど母の様子を見に訪問してくれているケアマネージャーさんから、母の入院を強く薦められたと書いた。
記憶障害と精神的不安定の状態が続き、とても一人暮らしが続けられる状態ではないと言われたらしい。
それはもう兄弟全員がわかっていることでもあった。金を渡してもはあっというまになくなり(使ってしまったのか紛失したかもわからない)、通帳や印鑑、保険証や補聴器など、大事なものをことごとく紛失し、毎日何かしら部屋をひっくり返して朝から晩まで探しているような状態だ。ガスコンロをつけっぱなしにしていたこともあったらしく、火の始末も心配だ。被害妄想でまた近隣住民に迷惑をかけるかもしれない。電動自転車で走り回っているのも危なっかしくて仕方がない。医療センターの社会福祉士さんが毎週持ってきてくれる精神安定剤も飲んでいない。飲むのを忘れないようにわざわざ1日分ずつ袋に薬を小分けしてくれ、カレンダーにペタペタと貼り付けてくれたものを渡されているのに、そのカレンダーは薬がまだ貼り付けられたまま、丸めてベッドの下に隠されていた。
それでも本人は、誰の世話にもならない、一人暮らしを続ける、と頑固に言い張っている。
われわれ兄弟は、母に施設に入ってもらうことも相談しているが、ケアマネさんによれば、記憶障害はともかく、現在のような被害妄想で周囲に対して攻撃的だったり、他人の言うことに耳を貸さない頑固な精神状態、では施設にも受け入れてもらえないし、たとえ入ったとしてもすぐに脱走して帰ってきてしまうだろうと言われる。
入院を薦められたのは老年精神科の専門医がいる心療内科である。
夏に行った総合病院での検査結果と、最近の言動などから、すぐにでも入院が必要な状態と診断された。入院しながら、精神を安定させるための投薬治療を施し、経過を見ていくということだ。
認知症の診断をされたことは本人にもすでに知らせているが、本人は認めず、どこも悪くないと日頃から言い張っている。本人が入院を納得するはずはないので、入院するなら、強制入院ということになる。本人が納得しない入院は法律上、内科や外科では認められてはいないが、精神科だけは、家族全員の同意があれば強制入院が認められているのだと言う。
母にこれ以上一人暮らしをさせておいても危険な上に心身ともに状態が悪化していくだけだということはわたしにもわかっているが、どうしても本人の望まない「強制入院」という方法にはやはり抵抗を感じてしまう。
ケアマネさんと長い時間電話で話した。
結局わたしが強制入院に納得せざるをえなかったのは、「本人がいちばん苦しんでいるんです」というケアマネさんの言葉だった。
最近は「毎日だれかが家の裏口に立っている。夜中になると侵入してくる。怖いから寝たふりをしている」などというメールも来ていた。そして朝になると、また何かしら必要なものが見つからなくて、一日中家の中を引っ掻き回している。また盗まれたと嘆き、怒り、なんでおまえたちは親に対してこんな仕打ちをするのだと、われわれ子供達を憎み、悲しんでいる毎日なのだ。兄弟も全員、入院に賛成した。
11月下旬に、仕事で行けなかったわたし以外の兄弟3人が病院へ行き、医師と面談し、母の入院が認められた。入院は、12月7日に決まった。母には、検査だと言って病院に連れて行き、そのまま入院してもらうことになる。騙すわけだ。
入院の当日は、妹が母を病院に連れていくことになった。検査に行くこと自体はもともと母も望んでいたので、病院に行くことには抵抗しなかったが、当日の朝妹が迎えに行くと、病院へ向かう車中で、案の定、盗んだ補聴器を返せと言い出し、お金も盗んでいっただろうと激昂しはじめ、興奮状態のまま病院に着き、診察が始まったという。
診察中も興奮がおさまらず、帰ると言って暴れ出したので、屈強な男性職員が二人来て連れて行き、そのまま隔離保護室で入院という形になった。
保証金を5万円払ったという。これは病院の設備や備品を破壊するなどした場合の弁償に充てられるということで、何もなければ退院時に戻ってくるらしい。
しばらく面会は許可されず、医師や担当の看護師さんから状態を聞くだけだった。
初日は入院に納得いかずにずっと暴言を吐き続けていたが、翌日からは大人しく検査なども受け、食事も摂っているそう。隔離保護室からガラス張りの個室に移され、騒ぐことも無くなったが、相変わらずあれがない、これがない、持ってきたはずなのに、と探し物は続けているし、お金を取られたなどの妄想は続いていると言う。
血液検査やCT検査も大きな問題はなく、体調面は問題ないが、認知検査では、少し前に言ったことが覚えられなかったり、計算ができない、日時がわからなくなる、などといった症状が見られるということだった。
前回このブログで『母と闘う』の記事を書いたときに、10代の頃からの長い付き合いの友人からのコメントで「心鬱ぐ時には身体も鈍りがちになり、何をやっても冴えないという負のスパイラルに陥り易いので、心穏やかに健やかに此の局面を乗り越えて頂きたい」という励ましの言葉をいただいた。
そう言われてみれば、母の病状が進行して、いろいろと面倒を見たり思い煩うことになった夏ぐらいに、仕事中に手首を捻挫して2週間も仕事を休む羽目になったり、秋には原因不明の40度を超す高熱に度々襲われて仕事中にぶっ倒れたり、考えられないような阿呆なミスを立て続けにやらかして職場での信用を失ったりと、別に母のせいではないはずだけれども、友人の言うように、何をやっても冴えず、まさに負のスパイラルに陥ってる感じだった。
自分では母のことにそれほど心労や負担を感じていたつもりではなかったが、心の奥深くでは何かざわめいているものがあったのかもしれない。母が入院してからというもの、わたしの健康状態も良く、仕事中のミスも一切なくなったのは、どこかで安心し、そのざわめきが消えたということなのかもしれなかった。
母との面会が許可されたと妹から連絡があったのは、入院から1ヶ月後のことだった。
月に1度、2人まで、平日の14時から16時の間で10分間のみ、というかなり限定された面会だったが、兄弟たちからはまずはわたしが行くことを勧められた。ちょうど正月休みの最中で、東京で働いている娘が帰省していたので、翌日の1月5日に娘も連れて行くことにした。母にとっては孫だが、母はこの孫娘を幼い頃からずっと可愛がっていたからだ。
予約した時間通りに娘を連れて病院に面会に行くと、4人がけのテーブルひとつだけの小さな面会室に通された。
看護師さんに連れてこられた母は意外にも肌ツヤが良く、髪や着ているものずいぶんこざっぱりとして、顔つきにも険がなくなり、一人で暮らしている時よりもずっと健康そうだった。耳が聞こえないため、筆談用の小さなホワイトボードを持っていた。
昨年の正月以来1年ぶりに会った孫娘の名前が最初こそ出てこなかったものの、娘がホワイトボードに大きく名前を書くと思い出したらしく、名前を呼びながら大喜びして娘の手を握ったりしていた。
しかし母はすぐに娘に「ごめんね、ちょっとだけ席を外してもらえるかな」と言い、娘を面会室から出した。
わたしと二人になると、母は喋ることはできるのに、あえて無言でホワイトボードに「何もしてないの。奈美の身がわり」と書いてわたしに見せた。
一瞬なんのことかわからなかったが、わたしはその下に「ここはどこだと思ってる?」と書いてみた。
すると、「刑務所でしょ?」と母は言った。もちろん真顔だ。
どうやら母は、娘の奈美の身代わりで刑務所に入れられたと思っているらしい。そういうふうに自分の中で納得したのかと、驚くというよりは感心してしまった。
「ここは刑務所じゃない。病院だよ。認知症の治療で入院してるんだ」とわたしは一応言ってみたが、案の定「そんなわけない。だって認知症じゃないし、どこも悪くないよ」と言う。
「ここの生活はどう?」と訊くと、「天国!」と母は笑顔で即答した。「何もしなくて食事が出てくるし、わたしの嫌いなものは出てこないし、職員の人たちもいい人ばっかり。もうずっとここにいたいぐらい」と嬉々として語る。
なんだ。母にとって、この刑務所はどうやら天国らしい。
席を外した孫娘を面会室に呼び戻し、10分間の面会を和気藹々のうちに終えると母は孫に「また来てね」と言って見送った。
担当の看護師さんの話では、母は午前中と午後に1時間ずつ部屋を出ることができるのだが、その時間に売店でおやつを買うことを何よりの楽しみにしているそうだ。その場ではお金のやり取りはなく、入院費と一緒に後から請求されるシステムなので、母にとっては、お金を払わずにおやつが食べ放題の毎日のような感覚なのだろう。
売店には無いものでも欲しいものがあれば、看護師さんに言えば数日後には届く。
これは看護師さんが母の要望を奈美に伝え、奈美が用意して差し入れをしているわけだが、母にとっては欲しいものがなんでも手に入ると言う感覚なのだろう。先日は編み物がしたいと毛糸の色を指定して15玉も差し入れさせている。
そしてつい先日、これも差し入れを要望したレターセットを早速使って、われわれに宛てた手紙が届いた。
色々と心配ありがとう
母さんは元気で 生活もなれて
友達もたくさんできて 毎日楽しく生活しています。
目が見にくくて 書いてる字も見えないので
乱筆ですが、がんばってよんでね。
今は 何も不自由してないので 心配ないですよ。
まだ何も にもつは見てないのですが
色々ありがとう 又ね。
楽しそうで、元気そうで、何よりである。なにしろ彼女は天国にいるのだ。
強制入院も、結果オーライということか。
ただし、このまま永久に入院生活が続けられるわけでもない。
退院してまた一人暮らしに戻ったら、また元の木阿弥だ。
退院した後のことも、今から考えておかなければならないのだ。
(Goro)