A) ジャンピン・ジャック・フラッシュ
B) チャイルド・オブ・ザ・ムーン
B) Child of the Moon
The Rolling Stones Single 1968
デビュー以来、ストーンズのマネージャーであるアンドリュー・オールダムが音楽プロデューサーも兼任していたが、彼に音楽的な資質があるわけではなかった。
彼がストーンズと袂を分ち、セルフ・プロデュースとなったアルバム『サタニック・マジェスティーズ』も惨憺たる結果となり、完全に詰んでしまったストーンズが初めて外部から招聘したプロデューサーが、ブルックリンで生まれ西部で育った当時26歳のジミー・ミラーだった。彼はスペンサー・デイヴィス・グループの「Gimme Some Lovin’」をプロデュースして大成功を収めていた。彼についてキースはこう語っている。
なによりも大きいのは。ジミー・ミラー自身がべらぼうにうまいドラマーだったことだな。あいつはグルーヴを理解していた。(中略)あいつのおかげで、ものすごく仕事がやりやすくなった。特にグルーヴとテンポを決めるのに抜群の手腕を発揮した。ミックともうまく意思の疎通ができていた。あれでミックもやっていけると確信したんだ。(『ライフ』キース・リチャーズ著 棚橋志行訳)
中央がジミー・ミラー
そのジミー・ミラーのプロデュースによる第一作「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」は、それまでのサイケデリック路線から一転し、必殺のギターリフとストーンズらしいグルーヴを持った、最高に刺激的なロックンロールだった。ストーンズにとって2年ぶりとなる全英1位、そして全米でも3位という大ヒットとなり、この曲は以降のすべてのツアーで演奏される代表曲となった。
この曲についてミック・ジャガーはインタビューでこう語っている。
実はこの曲って書いた瞬間もそうだったけど、今でもラジオで耳にしたり自分で歌ったりするたびに俺の中にむやみやたらな活力が湧き上がってくるナンバーなんだ(中略)例えば自分がメチャ落ち込んでるような時でもこの曲を口ずさんでみさえすれば即、世界の頂点に立ってるような気分になれる、っていうかさ。曲調、歌詞ともに俺の士気を高め、俺を鼓舞してくれる作用を持ってるみたいなんだ(『ロッキング・オン』1999年6月号)
キースも、ジミー・ミラーとの最高の仕事は「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」だったと言い、またこの録音には実はエレキギターを使っていないとも明かしている。
「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」! ちきしょう、なんてレコードだ! 俺の才能を全部まとめてカセットレコーダーに詰め込んだ。(中略)
アコースティック・ギターから新しい音が得られることを発見した。あのガリガリ汚れた音は何軒かの安モーテルで生まれた。録音できるものは、当時出たばかりのフィリップスのカセットレコーダーしかなかった。いきなりミニスタジオが手に入った感じだ。
アコースティックを鳴らし、音が割れるまでカセットレコーダーのレベルを上げて、再生してみると、エレクトリックみたいな音になる。カセットをピックアップ兼アンプとして使っていたわけだ。再生するとまさしくエレクトリックの音だ。(『ライフ』キース・リチャーズ著 棚橋志行訳)
そうやって録音したテープをスタジオに持ち込み、マイクの前で再生して土台となるトラックを作ったと言う。
ちなみにベースもキースが弾いている。ビルはオルガンを担当した。
B面の「チャイルド・オブ・ザ・ムーン」も好きな曲だ。サイケデリックの名残がありビートルズ風でもあるが、ジミー・ミラーがうまいことまとめてくれたのだと思う。
完全終了かと思われたストーンズの奇跡の大逆転劇だった。
ここからストーンズの本当の快進撃が始まる。
このシングルの成功を皮切りに、ジミー・ミラーは1973年までストーンズのプロデュースを継続することになる。われわれストーンズ・ファンはこの期間を、ザ・ローリング・ストーンズの黄金時代と呼んでいる。
(Goro)