わたしがRCサクセションを知ったのは中二のときだ。1980年のことである。
当時、シングルでリリースされたばかりだった「トランジスタ・ラジオ」をラジオで聴いて、一瞬で好きになった。あの少年のようなユニークな声、当時流行のニューウェイヴ的なサウンド、そして中二の心に見事に突き刺さる歌詞、わたしがラジオで聴いたのもたぶん一度か二度ぐらいだったのかと思うけど、当時は二度も聴けばメロディはもちろん、歌詞まであらかた憶えてしまったものだった。
わたしはそれまで歌謡曲が大好きで、テレビの歌番組やラジオのチャート番組を聴くのを楽しみにしていたのだけれど、テレビに出てくる”歌謡ロックバンド”とはひと味違う、本格的なロックバンドに初めて出会った気がした。わたしの”ロック中二病”はRCから始まったのだ。
RCサクセションは1970年3月にシングル「宝くじは買わない」でデビューした。
これは泉谷しげるより1年半早く、吉田拓郎より3か月早いデビューだった。
当時のRCサクセションはリード・ヴォーカルとアコギの忌野清志郎、アコギの破廉ケンチ、ウッドベースの小林和夫という中学の同級生トリオだった。当時はまだ日本にロックというジャンルが確立されていない時代であり、若者の間で流行していた〈フォーク〉のグループのような体裁を取りながら、オーティス・レディングのソウル・ミュージックのような、感情と魂を剥き出しにした独自の音楽を志向しているようなグループだった。
しかしRCサクセションはデビューから10年間のあいだ、「僕の好きな先生」がオリコンシングルチャートの70位に上がった以外は、まったく売れなかった。所属事務所とのトラブルで仕事を干された時期もあり、アルバムも10年間で3枚しか発表していない。
きっと、早すぎたのだ。
目指したものは当時の需要には合わず、事務所やレコード会社の理解も得られず、また、メンバーも足りなかった。
その風向きが一気に変わったのが70年代も終わる頃だ。
海外のパンク~ニューウェイヴのムーヴメントに影響された清志郎が髪を逆立て、化粧をし、ギターの仲井戸麗市、ドラマーの新井田耕造、キーボードのG2を加えてロックバンドの体裁を整え、1980年にシングル「雨上がりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」を続けざまにリリースし、ライヴ・アルバム『RHAPSODY』を発表すると、ついにRCの逆襲が始まった。
一気に過熱したRCの人気は、まるで社会現象のように様々なメディアに取り上げられ、あれよあれよという間に彼らは日本を代表するロックバンドとなったのだ。そして、中二のわたしが持っていたトランジスタ・ラジオも、彼らのナンバーをキャッチしたというわけだった。
そんなRCサクセションが、1991年に活動を終えるまでの21年間に残した、スタジオアルバム12枚、ライヴアルバム8枚の中から、わたしが愛するベストテンを選んでみました。
三人編成のRCサクセションの1stアルバム。冴えたタイトルだと思うが、しかし同時に、大器晩成を予見し、これから始まる苦節の期間を予見したようなタイトルでもある。
オープニングの「2時間35分」からホーンが入り、“ガッタガッタ”とオーティス・レディングが得意にしていたフレーズも飛び出す。いわゆるフォークなどはまったくやろうとしていないのは明らかだ。
全曲を忌野清志郎が作詞・作曲していて、「金もうけのために生まれてきたんじゃないぜ」や「言論の自由」「シュー」など、後のRCに通じるエッジの効いた曲も収録されている。シニカルなユーモアや毒の強い暴言、心を抉るような心情の吐露など、サウンドは違っても、清志郎は最初から激しくロックしていたことがわかる。
当時RCが所属していたレコード会社、東芝EMIは親会社が原発関連企業の東芝ということから、「サマータイム・ブルース」「ラヴ・ミー・テンダー」など、原発や核に反対する歌詞を「企業の論理」という実にくだらない理由で問題視し、発売中止としたことから大きな話題となった。
結局、古巣のキティレコードから発売されたが、話題性もあり、RCにとって最初で最後のオリコンアルバムチャート1位を獲得し、20万枚を超えるヒットとなった。
プロテスト・ソングばかりではなく、全体としてはロックの名曲の日本語カバーアルバムであり、山口富士夫やジョニー・サンダースが参加するなど、ロック的なパワフルなサウンド、アプローチになっている。
過激な歌詞が話題になったが、たとえば1st『初期のRCサクセション』とこのアルバムを続けて聴けば、清志郎の歌詞の過激さやストレートな物言いはデビュー当時からのものだということがよくわかる。
RCサクセションのラスト・アルバム。練習をすっぽかしたりしていたキーボードのG2がクビになり、今回は曲によってドラマーを変えたいと伝えたところ猛反発した新井田耕造がレコーディングの途中で脱退したりと、RCは清志郎、仲井戸、小林の3人編成となってしまう。
しかしカルメン・マキ&OZのリーダー春日博文や、レニー・クラヴィッツのスタッフにも手伝ってもらい、ケガの功名と言うべきか、RC史上最高の素晴らしいサウンドになったと思う。
楽曲はそれほど強力なものはないけれども、暖かみのあるアコースティックなアナログ・サウンドの素晴らしさだけで、何度も聴きたくなるアルバムだ。
三人編成時代の2ndアルバム。1stより格段に楽曲が充実し、よりエモーショナルな内容となった。清志郎以外のメンバーも作詞・作曲に参加し、リード・ヴォーカルを取ったものもあり、音楽性が豊かになった印象だ。
なのにまったく売れず、シングル・カットも1曲もされなかった。そしてこの後、事務所とのトラブルもあり、実に4年もの間レコードがリリースされることはなかった。
1979年に5人編成のロックバンドとして活動再開すると、ライヴハウスで人気が急上昇し、レコード会社もここぞとばかりに、1年半のあいだに4枚のアルバムをリリースするという量産体制に入ったことが功を奏し、苦節10年のRCサクセションは大ブレイクした。
このアルバムもその時期の1枚で、それまでライヴなどでは演奏していたもののレコード化されていなかった曲をあらためてスタジオ録音したもので、RCのアルバムの中では最もロック色の強いサウンドとなっている。
とびっきりカッコいいドラムとそれに絡むキース・リチャーズばりのギターリフが印象的な「ロックン・ロール・ショー」、思わずサビを一緒に歌いたくなるR&Bナンバー「ガ・ガ・ガ・ガ・ガ」、心に沁みる「多摩蘭坂」などの名曲を収録。
唯一の海外録音(ハワイ)のアルバムだが、当時の清志郎は肝臓の調子が悪く、また近親者の重病も重なり、それでも馬車馬のように働かせながら音楽的な内容には一切興味がない事務所への不信感も募り、肉体的にも精神的にも最悪の状態に制作された作品だという。そんな、嫌気のさした気持ちが歌詞に漏れているようにも思うが、しかし音楽的にはシンプルなアレンジの、好感の持てるサウンドだ。
楽曲も、ビートルズの同タイトルの曲へのオマージュ「Drive My Car」、初期のころからライヴで演奏していたもののタイトルが縁起でもないということでレコード化されずにいた「お墓」、同じく以前から演奏していたものの歌詞が卑猥に聞こえるということでレコード化されずにいた「指輪をはめたい」、シングル・カットされた「Oh! Baby」、そして代表曲のひとつにもなったロックンロール・ナンバー「ドカドカうるさいR&Rバンド」などの佳曲が揃っている。オリコンアルバムチャート7位まで上昇するヒットとなった。
3rdアルバム。所属事務所のホリプロとのトラブルで仕事を干されていた期間中の1974年にホリプロには内緒で録音したアルバム。タワー・オブ・パワーやニューヨーク・フィルなど世界的なミュージシャンや楽団も使い、名曲「スロー・バラード」も生まれ、オリジナリティあふれる完成されたサウンドの最高傑作となったが、意地悪なホリプロは発売の許可を出さず、そのままお蔵入りとなった。
2年後に馬鹿なホリプロとの契約が切れ、事務所を移籍してやっとリリースされたが、しかしまったく売れず、わずか1年で廃盤となった。
しかし4年後、RCが5人のバンド編成になり、ライヴでの人気が高まり始めると、有志たちによってこのアルバムの「再発実行委員会」が発足され、1980年に正式に再発売された。
再発盤の帯にはポリドールの「こんな素晴らしいレコードを廃盤にしていたことを恥じ入り、反省している次第です」との謝罪文が掲載された。録音から実に6年、幾多の苦難の末にようやく陽の目を見た名盤だった。
1976年から80年までのシングルのA・B面を収録したアルバム。RCがバンド編成になり人気が急上昇していた時期の需要に応えるようにしてリリースされたアルバムだった。
この名盤ベストテンではもちろんベスト盤は対象外としているが、このアルバムはベスト的に選曲されたものではないし、2曲を除いてすべてオリジナル・アルバム未収録曲ということで、オリジナル・アルバムと同等の内容と考え、選ぶことにした。
「トランジスタ・ラジオ」がかろうじてオリコンチャート83位に入っただけで、他のシングルはすべてチャート圏外と、決して売れてはいないが、「雨上がりの夜空に」「君が僕を知ってる」「キモちE」「上を向いて歩こう」「ボスしけてるぜ」など代表曲がガッツリ収録された、ファン必携のアルバムだ。
ギターの仲井戸麗市、ドラムの新井田耕造、キーボードのG2が加入して最強ロックバンドとなったRCの初のスタジオ・アルバム。
しかし歌謡曲のアルバムのような低音を軽視した薄いサウンドの録音は評判が悪く、特にR&B風の曲がもったいないが、当時は本格的なロックの録音のノウハウがまだ日本では確立されていなかったためだと言われている。
これはわたしが初めて聴いたRCのレコードだったが、記事の冒頭で書いた”本格的なロックバンドに初めて出会った”のはわたしだけではなく、日本の音楽界そのものがそうだったのかもしれない。
「トランジスタ・ラジオ」「Sweet Soul Music」「あきれて物も言えない」「いい事ばかりはありゃしない」など、RCを代表する名曲が収録された名盤だ。
デビューから10年間、売れず、干され、辛酸をなめ続けてきたRCサクセションがバンド編成になってついに大ブレイクしたライヴ・アルバム。収録された9曲のすべてが当時はアルバム未収録だった。
これぞロックバンドの音と言えるパワフルな録音も最高だし、名曲だらけの、何度聴いても熱くなるアルバムだ。正直、スタジオ録音でこれを超えるバンドのパワーやグルーヴ、疾走感を捉えたものはなく、RCの真骨頂はやはりライヴだなとあらためて思う。
2005年にはこのライヴの完全版、19曲を収録した『RHAPSODY NAKED』が発売された。
アルバムとしては凝縮された内容のオリジナル『RHAPSODY』のほうが完成度は高いが、NAKEDのほうはMCや曲間も長めに収録されているため、観客のものすごい盛り上がり方が伝わってくる。彼らもきっと初めて本格的なロックバンドに出会って興奮しているに違いない。
1980年4月5日の久保記念講堂でのライヴだ。まだこの時点では、6年間アルバムを出していない、前作もすでに廃盤になっている不遇のバンドで、ライヴハウスでようやく注目され始めた頃だ。遅すぎるほどの遅咲きが開花する瞬間の、貴重な記録である。
『NAKED』の最後のトラックで、何度もアンコールをせがんで熱狂する観客に対し、清志郎が信じられない光景を見ているかのように「呆れたやつらだ。すげー人気だ。ありがとうございます」と言うところは、わたしはいつ聴いても涙がこぼれそうになる。
以上、RCサクセション【名盤ベストテン】でした。
もし、若い人でこれから初めてRCサクセションを聴いてみるという方にもやはりわたしはベスト盤より『RHAPSODY』(オリジナルのほう)を薦めます。もう、これを聴いて好きになれなかったら、どれを聴いても無駄だと思うので。
(Goro)