Buddy Holly and The Crickets
That’ll Be The Day (1957)
1955年10月、ビル・ヘイリーなどと共にロックンロールショーに出演したデビュー前のバディ・ホリーの評判がデッカレコードに伝わり、デッカは彼と契約した。
翌1956年、ナッシュヴィルでレコーディングを開始するが、この「ザットル・ビー・ザ・デイ」をエンジニア・ルームの全員が最悪の曲だと思ったという。レコーディング責任者の男はバディに「君は私が今まで仕事してきた中で最も才能が無い」と告げたという。
デッカは「ザットル・ビー・ザ・デイ」をお蔵入りにし、別の曲で2枚のシングルをリリースしたがまったく売れず、バディは1年で契約を打ち切られた。
1957年3月、新たに別のレーベルと契約したバディは、デッカでお蔵入りになった「ザットル・ビー・ザ・デイ」を再録音した。この曲に絶対の自信を持っていたからだ。ただし、デッカとの契約で、一度デッカで録音した曲は5年間は他のレコード会社からリリースできないことになっていたため、苦肉の策としてバディ・ホリー名義ではなく、百科事典を適当にめくって決めた、ザ・クリケッツ(コオロギ)というバンド名でリリースすることとなった。そして1957年7月にシングル「ザットル・ビー・ザ・デイ」がブランズウィックレコードからリリースされると、全米1位、100万枚を超える大ヒットとなった。
わたしもバディ・ホリーで最初に好きになった曲がこの曲だった。シンプルで魅力的な曲だ。
ポップだけど甘すぎず、肩の力の抜けた感じがまた良く、当時の新しい音楽「ロックンロール」の新鮮な香りは今聴いても失われずに伝わってくるようだ。短いイントロと間奏のギターの、美しい音にシビれる。
クリケッツのギタリスト、ソニー・カーティスはデッカでのレコーディング中に、スタジオの掃除をしていた少年に「どの曲が良かった?」と聴いてみたと言う。少年は迷わず、エンジニア・ルームの大人たちに揃って「最悪の曲」と評されたばかりの「ザットル・ビー・ザ・デイ」を挙げたと言う。
ロックンロールの誕生が当時の世代間のギャップや断絶を顕にした、新しい時代の始まりを象徴する逸話である。
(Goro)