小学校入学直前、満面の笑顔のわたし
わたしが小学校一年生の冬、それまで住んでいた社宅から、一戸建ての真新しい新居へと家族で引っ越しをした。当時32歳の父親は、会社で順調に昇進し、家族のために一念発起して家を買ったのだった。
父親は、音楽や映画が好きな優しい人で、子供に手を上げるようなこともまったくなかった。
わたしは引っ越しと共に転校することになったが、しかしほとんど新しい学校に行く機会はなかった。転校してすぐに冬休みに入ってしまったし、そして引越してから1ヶ月も経たないうちにその新居を後にすることになったのだ。
ある休日の朝、2階で寝ていたわたしと妹が階下へ降りていくと、父と母が待っていた。母は2歳になった弟を抱いていた。わたしは7歳、妹は5歳だった。
「ねえ、お母さんとお父さん、どっちが好き?」と母はわたしと妹に尋ねた。
わたしと妹は、「お母さん!」と答えた。父は「まいったなー」といった表情で笑っていた。仕事で帰りも遅く、週末が休みではなかった父は、子供たちと過ごす時間が少なく、専業主婦でいつも家にいた母のほうに子供たちがなついているのは当然と言えた。
「じゃあみんな、出かけるから着替えてきて」と母は言い、わたしたちはよく事情が飲み込めないまま、しかしどこかへ遊びに連れて行ってくれるらしいと思い、ワクワクしながら、2階の部屋で外出の準備をして、再び階下へ集まった。
「じゃあ」と母は父に言って、子供たちを家の外に連れ出した。あれ? お父さんは行かないのかな、とわたしは思った。父は戸外に出ず、玄関で子供達に手を振った。
よく見ると、家の前に車が停まっていて、運転席に知った顔があった。以前住んでいた社宅の近所に住んでいた、職人のオッサンだった。
われわれ子供たちは、母に連れられてよくそのオッサンの家に遊びに行った。その家には太ったオバサンと、われわれと同じくらいの年頃の息子と娘がいた。
どういう知り合いなのかわたしは知らなかった。なんとなく、母の親類なのかなと思い込んでいた。父が一緒に訪問することがなかったからだ。
わたしはそのオッサンが嫌いだった。エラが張り、目つきの鋭いオッサンは、いかにも怖そうだった。
一度オッサンは、息子とわたしを近所の公園に連れて行ったことがあった。オッサンは息子にグローブをつけさせ、金属バットでノックを始めた。
そのうちわたしに、息子と交替するように言った。わたしは野球などやったことがなかったし、グローブも付けたことがなかったのだけれど、きつい口調で命令するオッサンが怖くて、仕方なくグローブを付けた。
当然ながら、まったく捕れないどころか、オッサンの打つ強いボールが怖くて、逃げてばかりいるとオッサンの怒声が飛んだ。「何やってんだ、コラ!」。オッサンの息子がそれを見ながらニヤニヤしていた。
そのオッサンがなんで車に乗って、こんな遠いところまで来ているのかわたしにはわからなかったが、母親の「さあ、みんな乗って」という言葉に従って、子供たちは後部座席に乗り込んだ。車は走り出したが、「どこへいくの?」と訊いても、母は「いいところ」と答えるだけだった。
やがて到着した場所は、2F建ての古い木造アパートだった。車から降りると、われわれは2階への階段を昇り、真ん中辺りの一室へ入った。
玄関を入ると右手に炊事場があり、左手にトイレがあった。風呂はなかった。入ってすぐの四畳半の板の間には食事を取るためのローテーブルがあった。そして奥に六畳の畳の部屋があった。それだけだった。
ローテーブルを囲んで全員が座ると、母がオッサンをチラッと見て「今日から新しいお父さんになるのよ」と子供たちに言った。わたしは驚愕した。妹はなぜか「やったー!」などと調子を合わせていた。
オッサンとの暮らしが始まり、わたしは二年生からまた別の学校に転校した。
オッサンは、子供たちの行儀が悪い、しつけがなっていないと怒った。食事のときは板の間に正座して、ひと言も喋らずに食べるように言われ、箸の持ち方、茶碗の持ち方、姿勢なども厳しく注意された。上手くできていないと、いきなり頭を箸でビシッと叩かれた。足の痛みに耐えかねて、食事を残したまま終えようとすると、頬を張り飛ばされた。
基本的に大人に口答えをすることは許されず、容赦なく叩かれた。妹や弟はまだ小さかったこともあり、すでに小学校に上がっていたわたしにほとんどの暴力が集中した。
あるときは、母親が買ってきた焼きそばに対して「お好み焼きがよかったなあ」とわたしがうっかり言ってしまったたためにオッサンが激怒し、わたしを張り倒し、投げ飛ばし、蹴り、踏んづけ、気絶するまで叩きのめした。
気絶から醒めると、わたしは記憶があやふやになっていて、何があったかしばらく思い出せなかった。ついでにトイレがどこだったかも思い出せなくなり「トイレはどこだっけ?」と口にした瞬間に「ふざけるな!」と怒鳴られて、またしても殴る蹴るの暴行を加えられた。
わたしが小学校4年のときに下の弟が生まれた。われわれ子供たちは大人になるまで知らなかったが、オッサンと母は再婚したわけではなく内縁の状態であり、下の弟は母の私生児ということになっていた。
その下の弟がまだ一歳にもならないうちに病気で入院したときの話だ。その日も母が病院に行こうとしていたので、「今日は僕も行きたい」とわたしが言うと、オッサンが「ダメだ」と怒鳴った。わたしはどうしても行きたかったので聞こえないふりをして、自転車で母の後を追った。病院に着くと母にも叱られたが、病気の弟を一目見て、家に帰ってきた。これは後から上の弟に聞いた話だけれども、わたしが病院へ行っている間にオッサンは激怒し、「帰ってきたら、これで叩いて、こっちへ倒して、踏んづけて、ああしてやる、こうしてやる」とずっと声に出して制裁の計画を練っていたそうだ。わたしが帰宅すると、その計画通りに制裁が実行された。
わたしが小学生のあいだ、オッサンの暴力は続いたが、しかし肉体的な痛み以上に悲しかったのは、離婚する前はいつもニコニコして優しかった母が、わたしがオッサンに暴行を受けるようになっても止めようともせず、むしろオッサンに感化されたのか、鬼のような形相をして、一緒になってわたしに暴力を振るうようになったことだった。
逃げ出したかったけれども、行くところはなく、誰に助けを求めればいいのかもわからなかった。児童相談所や警察へ行くなどという発想は、当時のわたしにはもちろんなかった。
学校の先生も些細なことで生徒に暴力を振るうのが当たり前の時代で、相談すべき相手だと考えたことは一度もなかった。先生たちはオッサンや母の味方をするに違いないと思った。わたしはとにかく、できるだけオッサンの視界に入らないようにして、子供部屋で布団を被ってラジオを聴くようになっていった。
その後、わたしが中学生になると身長が20cmも伸び、オッサンと変わらない背丈になった。「今度手を出してきたら、必ず反撃してやる」とわたしが日頃から心に思うようになると、それを見透かしたかのように、オッサンの暴行は止んだ。
卑劣な大人たちの暴力は、いつだって反撃できない相手にのみ振るわれる。反撃できないのは非力であることもそうだが、それ以上に、生活のすべてを大人に依存するほかないからだ。学校の教師の暴力も同じだった。子供たちが反撃してこないことがわかっているから、彼らは暴力を振るう。
わたしが中学二年の冬、オッサンの仕事がうまくいかなくなった。詳しい事情が子供たちに説明されることはなかったが、「連鎖倒産」という言葉を何度か聞いたことを憶えている。母と4人の子供たちは遠く離れた町の県営団地に引っ越しをした。オッサンとはそれ以来会っていない。わたしは、結局オッサンに一矢も報えなかったことを、ずっと悔しく思っていた。
あれから四十年以上が経った。
実はオッサンはまだ生きている、というのは昨年、年の瀬でにぎわうサイゼリヤで下の弟と久しぶりに会い。デカンタワインの白と赤を交互に注文して浴びるように飲みながら聞いた話だ。
オッサンは八十も半ばになり、独りで暮らしている。先のことが不安なので、一緒に住んでくれないかと下の弟に頼んできたというのだ。もちろん、断ったという。
ずうずうしいにもほどがあるな、とわたしは思った。下の弟を母の私生児として産ませ、一緒に住んでいたのもわずか4歳までのことでしかない。それで老後の面倒を見てくれとは、相変わらず自己中心的なやつだ。
「また会うことがあるかもしれないから、何か言いたいことがあったら伝えるよ」と下の弟が言った。彼はもちろん、わたしがオッサンに日常的に虐待を受けていたことをよく知っている。
「そうだなあ」とわたしはワインをガブガブと飲み、少し考えてから言った。「『わたしには23になる娘がいる。わたしは娘に、一度も手を上げたことがない。一度も怒鳴りつけたこともなく、一度も憎しみのこもった目で睨みつけたこともない。代わりに、ありったけの愛情を注いで育てた。娘はわたしなんかよりずっとできた子で、立派な人生を送っている。最高の娘に育ったよ』って伝えてくれ」。下の弟は大笑いしながら「オッケーイ」と言った。
娘が生まれたときにわたしは、この子に絶対に手を上げたりしないぞと、心に固く誓った。日常的に暴力を受ける環境で育った子供は、自分が親になったときに同じように暴力をふるいがちだといういわゆる「暴力の連鎖」というやつを、わたしは断ち切るつもりだったのだ。
わたしは言いながら、もう一矢も二矢も報いてたんだなと思った。そして弟につられて、あの小学校入学直前の写真のように、満面の笑みを湛えながら、わたしはグラスのワインをグビグビと飲み干した。
(Goro)